日常

「それでは、今日はここまでとします。この議題は次回に持ち越すので、考えておいてください」


私がそう言うと、さっきまで静かだった講義室がざわめき出す。学生達は、じきに立ち上がり、教壇の左右にある出口からそそくさと退室し始めた。

私は、広げていた印刷物を手に取り、重ね合わせる。

黒板に書き込んだ文字を消し、まとめた印刷物を鞄へ入れる。


ふぅと、吐息が漏れる。

授業は今日で5回目となるが、学生達の関心は薄いようだ。授業後に質問に来る学生などはいない。おそらく、最後までこの調子なのだろう。

私はこの赤海工業大学で、非常勤講師として、学生に宗教学を教えている。

学者としてうだつが上がらない私が、教鞭を執れているのは運が良い。


この大学は、駅から遠く離れた僻地にキャンパスを構えている。四方は山に囲まれ、近くには川も流れている。敷地は広く、設備も工業系の大学の中では良い方なのだろう。ただせっかくの広大な敷地をうまく活用できておらず、だだっ広い芝や誰も足を止めることのない放置された噴水、学部ごとに使用する建物がそれぞれ乱立してしまっていたりする。

初めてここに来た時には、広くて迷ったのを覚えている。把握してしまえばなんてことはないが、誰だって最初は必ず戸惑うように出来ている。


――帰ろう。

荷物を手にして、教壇から降りる。

まばらに残った学生達が、和気藹々と談笑しているのが見えた。その甲高い笑い声が、少しばかり神経を逆撫でする。


講義室を後にする。

建物を出ると、薄暗いことに気付いた。

空を見上げる。

分厚く黒い雲で覆われている。今にも雨が降りそうな様子だ。


「朝も、こんな天気だったっけ」


駅まではスクールバスを利用するから、そこまでは問題ないだろう。しかし、下車駅からは徒歩。コンビニで傘を買うしかないか。

帰り道のことを考え、気が沈む。


その場で数秒間の葛藤をしていると、後ろから、声を掛けられた。


「あの〜。どうも、すいませんー」


突然の声に、びくっとして振り向く。

すると、知らないスーツ姿の男が立っていた。

頭に手を当てて、申し訳なさそうにへらへらしている。

髪はボサついていて、口元には無精髭がある。よれたシャツを着ていて、小汚い。

歳は40代半ばくらいか。

なんとなく雰囲気が、学校関係者では無さそうだ。


「突然すいませんね。山井さんで合ってます?山井勇作(やまいゆうさく)さん」


タバコの香りがして、すぐに消える。


「え?ああ、はい。」


「そうでしたか、よかった。私こういうもんでしてね」


うちポケットに手を入れて、小慣れた手つきで何かを取り出す。


「私、赤海署の柳楽(なぎら)と申します。どうも」


柳楽と名乗る男は、取り出したその何かを、私に向けて開いて見せた。

そして、私がよく確認する前に、うちポケットへ仕舞い込んでしまった。

様子からして、おそらく警察手帳だったのだろう。


「け、警察?」


「あー、はい。すいませんね。少しお話を伺いたいのですが、よろしいですかね」


「別に構いませんが……。私何か?」


「あ、あはっはっ。いえ、そういうわけではありませんよ。そうですよね。こんなのが突然押し掛けて来たら驚きますよね、すいません」


……


「――いやぁ。折り入ってご相談がありましてね」


柳楽は、少し間を置いてから、含みのある不気味な笑みを浮かべた。