黒幕

「はっはっはっは!!くっくっくくっ…。」

しゃがみこんでいた男はゆらりと揺れながら立ち上がる。

目尻とほうれい線のシワが目立つ初老の男性。白髪混じりで長く伸びきった髪。ワイシャツにネクタイを締め、白衣を羽織っている。その風貌から連想されるのは研究者。

 

「すごいなぁ。君たちは。この形態のルナーと互角に渡り合うなんて。まだ君達のような魔術師が現存するとはね。」

 

男は全身にオーラを纏っている。黒い気体がゆらゆらと漂う。

 

「…ドクター。」

 

「ぐふっ……。武藤……。」

 

 

「おや。どうしたんだい?へとへとじゃないか。」

 

「ルナーを…返せ。」

 

「返せ?私の所有物を君に?返す?」

 

「所有物…だと?」

 

「ああ、そうだとも。あれは私のモノだ。どうして君に差し出さねばならない。」

 

「お前…自分が何をしたか分かってんのか!?監禁されて実験台にされたってそう言ってたぞ!!ルナーは泣きながら教えてくれたんだ。よく分からない薬を飲まされたり、打たれたりして頭がおかしくなりそうなほど、痛く苦しい毎日だったって!!」

 

「ふっ…。」

 

「全部てめえがやったんだろ…!おい!!」

 

「そうだが…?私があれをどう扱おうと、何の問題もない。違うかね?」

 

「ふっざけんな…!!」

 

「くっふっふ。短気だな。第三者が喚いたところで…。ふふっ。君はルナーの何なんだい?今から数日前に知り合って、その間に親交を深めた。所詮はその程度の関係だろう?それで、君が私にどうこう言う権利があるのか。」

 

「何偉そうに語ってんだよ…。頭のおかしなジジイの言葉に説得力なんて無え!!」

 

「そうかい。では、質問をしよう。私が彼女に何をやっているのか君は本当に理解出来ているのか?私がただ単に苦痛を与えるために監禁して、薬を投与していると?」

 

「なに…?」

 

「ははっ。面食らっているじゃないか。まるで考えが及んでいなかったと、そう顔に書いてある。」

 

「………。」

 

「我々はいずれ新世界を創り上げる。己の欲望に忠実な魔の世界だ。そこには旧人類など必要ない。我々のような一部の選ばれた存在のみが生きてゆく。物質と時間に縛られる事なく、新たな文明を築いてゆくのだ。」

 

「となれば、そこに相応しい生命を判別しなければならない。そのための指標を定めねばならない。ルナーは礎となる。感謝しているよ。」

 

「くっ…てめぇ…。」

 

「分かっただろう?君の浅はかな考えはこの世界の文明の発展を妨げているんだ。とても罪深い事だよ。」

 

「ぶん殴ってやる!!行くぞ、武藤!!!」

 

「待って、尤…!」

 

「受けて立とう。私は強いぞ。」

 

「おらぁ!!」

武藤の顔面に向けて拳を突き出す。

が、空振り。

武藤は体を大きく仰け反らせて、尤の打撃を避けた。

 

「体が軽い!!動きが止まって見えるぞ、少年。」

 

俺はもう一度殴りかかる。

しかし、その途中で拳がピタリと止まる。

拳は武藤の手に握られていて、1ミリも動かすことができない。

 

「なっ…。」

この力でもまだ、魔術師には対抗できないか。

 

「どうした。私の顔に一発入れないと気が済まないのでは?」

 

「くっ……。」

力一杯腕を抜こうとするが、動かない。

まるでコンクリートに固められているかのようだ。

 

「ふんっ!」

片手で軽く投げられ、体が壁に叩きつけられる。

 

「ぐぁあああ!!」

強い。段違いだ。

人間を片手で持ち上げる腕力、到底通常の人間とは思えない。明らかに魔術による恩恵を受けている。

 

「強い…。強いぞ!!!私は君より強い!!久々だよ、この感覚!!ははははは!!」

 

「くそ…。」

 

「ふぅ…ふぅ…。私はね。正確にいえば武藤という人物では無い。」

 

「なんだって?」

 

「私は武藤紀二の身体を使用しているが故に彼の記憶を所有している。しかし、それは私という人格の中にあるほんの一部の知識にしか過ぎない。」

 

「はぁ?」

 

「この男は条件が良かった。魔物を所有している上に、娘を無くし、心が擦り切れていたので、入り込みやすかった。なおかつ、肉体的にも精神的に私と波長が合う。力を許容する器の大きさ。力を求める探究心。魔とは何かを本質的に理解している。つまり、私の肉体を取り戻すまでに活動するための仮の器としては申し分なかったわけだ。」

 

「さ、さっきから何言ってるんだ…。」

 

「だから、言っているだろ?私は武藤紀二などというこの甘ったれた若造ではない。この男を利用させてもらったんだ。この身体、地位、人生を!私は我が忠義のために蘇った!!」

 

「蘇った…!?じゃお前は誰だって言うんだ…!!」

 

「ふん……そうだな。私は…。」

 

武藤は顎に手を当てて、思考を巡らせる。

 

「…悪魔…だろうな。」

 

「悪…魔…?」

 

「んっはっはっ。そうだ…。名は耀毅。紫月様が私にくださった名前だ。」

 

「耀毅…。」

 

「私は一度死に、冥界の奥底へたどり着くことで再び顕現した。冥界の存在はそれほど偉大だった。幸運でもまぐれでもない。正真正銘、私は冥界へたどり着き、深淵を覗いた。そして、境地へ至ったのだよ。」

 

「何言ってるんだ?冥界…?」

 

「ふっふっふ。あの時、私は悟った。神などという幻想を追い続ける意味はないとね。人の精神は脆い。誰しも何かにすがる必要があるかも知れない。しかし、存在の不確かな対象にすがる事は、むしろ己の精神を不安定にしかねない。なぜなら、その信念の裏付けは全くなく、いつほころびが生まれても不思議ではないのだから。すがるべきは己の精神と冥界の奥底なのだよ。」

 

「………。」

 

「紫月様が伝えられていた通り、身体の存在などさほど重要ではなかった。重要なのは自身の意識や思想。決意や執念。それら精神が潰えぬ限り、人は死なない。その教えの通り、私は死から解放された。他人の身体を借りてではあるがね。しかし、それももうすぐ終わりだ。」

 

「あいつの言っていた別人ってのはそういう事か…。」

 

武藤の全身は黒いオーラに包まれ始める。禍々しいそれは超濃度の魔力に違いない。

 

「なにあれ…。」

武藤は頭に手を当てて、苦しそうにもがいている。全身から洩れ出るオーラは武藤の足を伝い、床を這って流れていく。

 

「うぅぅううぅうぅ…ぐふぉっ…く…。」

 

「尤、あれはやばい!今のうちに逃げよう。隙がある今なら…うまくすれば。」

 

「ぐふぅ…ににに逃げる?逃げるだと…?そんな隙があると思うか?なぜなぜなぜ。なぜそんな考えが浮かぶのか理解できん。全く理解できん。」

 

「くっ…逃がしてくれそうにはねえよな…。それに、逃げたとしてどうなる。ルナーを置いて行けねえ。こいつをどうにかしなきゃ、ルナーはどうなるんだよ。こいつには勝つしかねえ。ルナーを連れて帰るためには…。」

 

「正解。その通りだ、少年。君は中途半端に賢い。くっふっふ。」

 

「くっ…バカにしやがって。……その少年っての、やめろ……。」

 

「立っているのがやっとなようだね。ふふっ。楽しかったよ。もう終わりにしよう。」

 

「はぁ…はぁ…。」

 

「はぁ!!」

耀毅は黒いオーラに包まれた腕を振り上げつつ、上体を仰け反る。

 

そして、力に任せて振り下ろす。

直撃。

顔面が跳ね上がり、身体ごと吹き飛ばされる。

何の抵抗も出来ずに、地面を転がる。

俺はもう何も策はない。

俺が用意しきてきた魔法はまるで歯が立たなかった。

 

「んんっ!!」

 

首を掴まれて持ち上げられる。

もはや痛みすら感じない。

掴まれた首だけでなく、手足がどうなっているのかすら感じ取ることができない。

視覚のみ微かに機能している。

それが分からなくなるのも時間の問題だ。

 

「弱者に権利はない。死ね。」

 

耀毅が尤の首を絞め上げる。

 

「うぐぐぐぅううう!!がぁあああ!!」

 

 

息が苦しい…。

それどころか首がへし折られる。

目の前の景色が歪む。

とうに限界は過ぎた。

意識が遠のく。

 

「あ……ああ……。」

 

ルナー。

彼女を救わなければ。

その一心で意識を繋ぎ止めようとするが、それももう難しい。

 

「く……そが……。」

 

ここで終わるわけにはいかないのに…。

目の前が真っ暗になる。