「少し出てくる。夕方には戻るから。ちゃんとここに居てね。」
そう言って、昼食から間も無くして、憐は出て行った。
2人やる事もなく、リビングでだらだらとしている。
「憐、どこ行ったんだろうね。」
「さあな。黒塊について調べてくるとは言ってたけど。」
「へえー。調べる必要あるのかな。憐が倒してくれたじゃん。」
「いや、あれだけじゃないらしい。また現れるかも知れないんだよ。」
「そっか、まだいるんだ。」
「原因もよく分かってないみたいだしな。」
「あれ怖かったなぁ。黒いのが急に襲ってきて、掴まれたらもう離れなくて。もうダメだって思った…。」
「…悪かったな。何も出来なくて。」
「だから、そんな事ないよ。尤のおかげだよ。」
「……。」
本当に何もしていない。
ただ、出来る事をやろうと思ったけれど、何も出来たことはなかった。
妙な気まずさを感じる。
小学生の頃、やっていない宿題を家に忘れたと言った時の様な、後ろめたさのような。
何故こんな気分なんだろう。
俺はやれる事をやった。もしかしたら、時間を稼ぐ事ができて、その結果として、憐の到着によりルナーが救えたのかも知れない。
そう。ルナーは実際にここで元気にしている。
救うために行動して、その目的は果たせている。
だったらどうしてこんな気持ちなんだろうか。
それから少し時間が経ったが、憐はまだ帰って来ない。
時刻は18時を回ったところ。
もう少しすれば夜だ。
黒塊についての調査が難航しているんだろうか。
そろそろ夕食の心配も出てくる。
もし夕食が抜きになれば、空腹に正直なルナーが喚き散らす可能性もある。
俺が用意する場合も考えておくか。
ピンポーン。
チャイムが鳴る。
憐が帰ってきたか?と思ったが、それはない。
いつも鳴らさずに玄関の扉を開ける。
この家を訪ねてきた誰かだ。
「誰だろ?」
これまでチャイムが鳴ったのを聞いた事がなかったので、少し戸惑う。
この家に来てから、これまで訪れた者は俺の知る限り、屋根をぶち破って侵入してきたルナーだけだ。
「ルナーみたいな乱暴者ではないみたいだな。」
「!?…どういうことー?」
「ふっ、ちょっと見てくる。」
「何笑ってんの。」
睨みを効かせるルナーを尻目に、玄関へ向かった。
暗転
「はい。誰ですか。」
リビングから応対が出来ないことに、煩わしさを感じながら玄関の扉に向かって問いかける。
時代錯誤なこの家にはインターホンなる機器が存在しない。この家にある機械類は生活に必要ないわゆる白物家電とテレビ。そして、俺の持ち込んだ携帯くらいだ。
「………」
「…あのー。」
「この家の主はご在宅か。」
扉の向こうで声がした。
男性の声だ。若くはない。少なくとも50歳は超えていそうな感じ。しゃがれた声というよりは重厚感のあるダンディな声だ。
「憐は今いないです。何か用ですか。」
「ああ、私は白波瀬さんと約束があって、来たんだけれど。外出中なのか。」
「そうなんですか。あ、でもすぐ帰ってくると思いますよ。」
「なるほど。では、中で待たせてもらっても?」
「え、あー…はい。」
少し図々しいなとは思ったが、憐とはある程度親交があるみたいだ。それが普通なんだろう。
扉に手を掛けてひねる。
ガチャリ。
ギギギと鳴らしながら、重い扉が開く。
外と内の世界を遮る物がなくなり、境界が曖昧になる。
扉が開くに連れて家の中は外になる。
目の前に立っていたのは白衣を着た男性。想像通り、年齢は50代…いや60代かも知れない。
灰色がかった耳の隠れるほど伸びた髪。鼻下にのみ蓄えた髭は気品を感じさせる。
「すまない。こんな時間に押し掛けてしまって。用が済んだらすぐに帰るから。」
「ああ、全然いいですよ。お客さんが来たの始めてだったのでびっくりしました。リビングへどうぞ。」
そう言って、リビングルームへ案内する。
しかし、少し引っかかる。憐は客が来るなんて言っていなかった。
それにこの白衣姿。街中をこれで歩いてきたのか。堂々とした立ち振る舞いと声が相まって独特な雰囲気を醸し出している。
端的に言えば怪しい。
憐の知り合いだというだけで、簡単に通してしまって良かったのか。
玄関からリビングまでの間に質問をしてみる。
「憐とはどういう関係ですか?」
「古い友人…というのかな。憐さんのお父さんとご縁があってね。それからの付き合いだ。」
「君は?」
「ああ、俺は居候です。ちょっと訳あってお世話になってるんです。」
「そうか…。君も大変なんだね。」
「?ええ、まあ…。」
「居候は君だけかい?」
「いや、もう1人います。ルナーって言うんですけど。今リビングにいると思うんで、部屋に戻るように言いますね。」
そんな話をしている間にリビングの前まで来た。
「いや、私の方が邪魔しているんだ。変に気を使わないでくれ。」
「そうですか。どうぞー。」
リビングの扉を開ける。
「ルナー。お客さんだ。」
「え、憐でしょ?」
「違う。憐はチャイム鳴らさないだろ。」
「でも……!?」
「やあ、ルナー。迎えに来たよ。」
「ド、ドクター……。」
「え…?」
ドスッ。
鈍い音がして、視点が一回転する。
「ぐふぁっ…。」
息ができない。
何が起こったのか理解できない。
いつの間にかに俺は倒れ込んでいた。
「きゃあああ!!」
ルナーの絶叫が屋敷全体に響き渡る。
遅れて腹部に強烈な痛みが走る。
ボウリングの球を打ち付けられたような重い痛み。
「かはっ…はぁ…はぁ…。」
うまく息ができない。
必死で呼吸をしながら、顔を上げる。
棒立ちでこちらを見下ろす客人が見える。
なんの感情も感じられない冷ややかな表情。
この者によって、壁に叩きつけられたのだと理解する。
「ゆう!!!」
駆け寄ってきて、俺に覆いかぶさるようにしゃがみ込む。
「ルナー。」
「………。」
体が動かない。
というか痛みが強くて、手足の感覚が分かりにくい。
「帰ろう。」
たしか、この客人をルナーはドクターと呼んだ。
あのドクターとはこいつの事だったのか。
この出来事の発端。ルナーを苦しめる元凶はこいつだった。
「………。」
微かに開いた目に映る桃色の髪が小刻みに揺れている。
ルナーが震えている。
あの男に怯えている。
「なん…なんだ…、お前。はぁっ…はあ…はあ…。」
「私?ああ、自己紹介が遅れて申し訳ない。私は武藤。彼女の飼い主だよ。ルナーがお世話になった。」
「そういう事…じゃねえ…。」
俺が吹き飛ばされたのは分かった。
しかし、何が起こったのかさっぱり分からない。
この場合、十中八九魔術師。
絶対、こいつにルナーを渡してはいけない。
「さあ、行こうか。」
武藤はこちらへ歩み寄ってくる。
依然として体が自由に動かない。
「………。」
ルナーの体が強張っている。
俺の服を掴む手の力がだんだんと強くなる。
どうしたらいい。
俺が、何とかしなきゃだめだ。
昼間の一件も何も出来なかった。
ここで何も出来なければ、これから先、俺はもう何にもなれない気がする。
ルナーは自分を何者なのかって言ってた。
でも、俺こそ何者なんだよ。
俺は何になれるんだ。
「立ちなさい。」
男の手が彼女の肩に触れる。
「はい…。」
そう返事をすると、ルナーに入っていた全身の力がすっと抜ける。
そうして、促されるままに立ち上がる。
諦めか。
こんなんで良いのか。
他人なんてどうでもいいと思っていた。
自分さえうまく生きれたらそれでいいと思っていた。
でも、他人は自分を形作る重要な要素で、それを大切にしない奴が自分をどうにか出来るわけがないんだ。
今にして思えば、憐にはそれが分かっていたような気がする。
日々の生活の中で、俺が疎ましく思っていた言動や行動の1つ1つが俺のためだったようにさえ思える。
ルナーだって本能的にそれを悟っていて、俺だけが何も分かっていない。
俺だけが何の努力もせず、世の中を一方的に嫌って、不貞腐れて、斜めに見てるくせに甘い考えのまま。外面だけ大人になれればそれで良いんだって思ってた。
微かに開いた目に映るのは立ち去ろうとする2人の背中。
「ま…待てよ…。」
声にならない掠れた息が出る。
聞こえていないのか。
何の反応もなく、歩みは止まらない。
それで良いのかよ。
この生活が楽しいって言ってただろうが。
俺がどうこう言える立場かは知らない。
でも。それでも、ここにいるべきだ。
「ルナァ!!」
腹部の痛みをこらえて、必死で声を張る。
ピタッと足を止め、振り向くルナー。
俯いて、俺を見てはいない。
目に光はなく、どこにもピントが合っていないようだ。
「……。」
数日前に初めて会った時のような顔をしている。
何にも期待してはいない。そんな表情に胸が締め付けられる。
どうにかしないと。
起き上がるため、目一杯体に力を入れる。
四肢が千切れるんじゃないかと思うほどの激痛。
「うぅ…。うぅ!はぁっはぁ…はぁ…。」
痛みに堪えて、必死で立ち上がる。
「ルナー…。くっ!…着いて行っちゃ…だめだ!」
「尤…。」
ルナーの目にほんの少し明かりが灯った気がした。
「俺がどうにかするから。」
「ルナー?分かるだろう。君が言う事を聞かないと、彼がどうなるか。」
「…それはだめ!」
「なら、分かるだろう?」
「そいつの言う事を聞くな!!」
「……はぁ…はぁ…でも…。」
「行くよ。」
「はぁ…はぁ…あぁ…。」
「ん?おい、落ち着くんだルナー。」
「…あ…ああ…ああぁ…。」
ルナーの様子がおかしい。
息が上がって、苦しそうにしている。
「ああ…あぁ……あうう…ゔゔぅっ…。」
呼吸はより一層荒くなる。
「お前…。」
「大丈夫か!?おい!!」
「うあああ!!うぅ!!ゔゔぅぅうう!!」
風が起こり、ルナーの髪が揺れ始める。
「ル…ナー…?」
「ゔゔぅぅ!!ゔゔゔゔぅぅっ!!!」
ルナーを中心に激しい風が巻き起こり、全身を緑のオーラが纏う。
「まさか。こんな所で…!?馬鹿か!!」
「おい!どうしたルナー!!」
「ゔゔぅぅっ!!!ゔあああああああ!!」
ルナーを覆うオーラは強く発光して広がる。
眩しくて、目が開けられない。
光が尤を飲み込む。
「うああああ!!」
電気ショックのような衝撃が尤の身体を駆け巡
る。
熱い。熱い熱い熱い。
燃えるように。皮膚が焼けるように熱い。
何が起こっているのか。火か。電気か。それとも何らかの魔術か。考えている間に燃え尽きてしまうんじゃないか。
今まで味わったことの無い激痛が襲う。
「し…ぬ……。」
意識が朦朧とする。
痛み以外の感覚はなく、自分が今どんな体勢なのかすら分からない。身体の自由が効かない。
それでもルナーを連れて行かれるわけには行かない。
必死で力を入れると、辛うじて右まぶたが開く。
「…あ…ああ……るな…。」
静止するよう呼び掛けようとするが声が出ない。
2人は尤から遠ざかっていく。ただ、見ている事しか出来ない。
何一つ成し遂げる事もなく、床に這いつくばる。
せめて少しだけ。もう少しだけ彼女を守るための力あればと懇願する。
暗闇の中。一筋の光が射し込む。
「なん…だ?」
その光は次第に強くなり、眼前に広がる。
視界の全てが覆われる。
碧く強い光。
燃える炎。
回想
"「それね…。混乱すると思ってあえて話してなかったんだけど。捉え方は人それぞれ。縄を手繰り寄せるようにとか。空気と一体化するようにとか言うけど。あれは言葉にされてもピンと来ないのよねー。」"
「そうか、これが…。」
手を伸ばす。
「これが俺の…。」
意識が途切れる。
暗転