第2研究室前。
「この先にルナーがいる。準備はいい?」
「ああ。もちろん。」
尤の言葉を聞いて、憐が頷く。
借りたカードキーをポケットから取り出す。
カードキーを扉の脇にある端末に押し当てる。
解錠を伝える電子音が鳴った。
「いくわよ。」
手を掛けると、扉はギリリと軋む音を立てながら開いた。
なんだか、薄暗い。
そのせいで全体を見渡す事はできないが、体感としては学校の体育館ほどの広さだろうか。
突き当たりまでは見通すことが出来ない。
地下室なのに相当な広さの部屋というかホール。
数秒もせず、異様な空気がどっと押し寄せる。
室内に充満した黒い魔力。2人はあれを見た事がある。
「うっ…魔力が濃度が高いわね…。」
「これは…!?さっきまで何も感じなかったのに!!」
「結界ね。魔力遮断なんて、面倒な事…。尤!この相手、あまり甘く見ない方がいい。気をつけて。」
「…ああ、分かった。」
憐の一言で気が引き締まる。
「何も見えねえ。」
尤がゆっくりと一歩踏み出す。
嫌な空気が肌に纏わりつく。
尤の自然と身体がこわばる。
本能が入るべきではないと言っている。
「尤、慎重に…。」
「ああ。」
ジリジリと前進する2人。
やがて、前方に影が見える。
前方には人型の影。
先の尖った耳。身体中を逆立った体毛が覆っている。臨戦態勢とばかりに中腰で、腕をだらんと下げている。まるで獣。
そして、禍々しい黒のオーラを放っている。
「ルナー…。」
そこ居たのは変わり果てた姿のルナーだった。
「…………。」
反応を見せない。
「ルナー!助けに来た。よかった無事だったんだな。」
慌てて駆け寄る尤。
ただ、様子がおかしい。
なぜ。他に誰もいない。ルナーは動かない。
「待って尤!!」
それに反応して、ビクッと立ち止まる。
が、結果的に尤がルナーの目の前で静止する形になる。
目前に立っているのは化け物だ。
荒い息遣い。全身を覆う体毛。鋭く尖った爪。充血した眼球。鋭い眼光は尤を完璧に捉えている。
もはやルナーではない。危険だ。
そう判断して、回避行動を取る。
しかし、間に合わない。
尤の回避よりも早く、鋭利な腕を振り下ろす。
ザッ!!
振り上げた腕は尤を捉える。
「うぐっ……!!!」
身体が吹っ飛ぶ。
後方へ派手に転がる。
「尤!!」
「うう…いってぇ…。」
慌てて駆け寄る憐。
「平気?怪我した!?」
「いや、大丈夫…。」
転がった先で、立ち上がる尤。
怪我は軽い打撲程度で済んだ。
「あ、危ないって!!今のルナーは様子がおかしい。話しかけても、応えが無いのはおそらく気を失っているんじゃなく、自我を失っている。つまり、狂化…狂人状態なのかも…。」
「狂人…。」
「ぐるるるるる……。」
眉間にしわを寄せて、喉を鳴らす。
充血した目の焦点は合っていない。
鋭く尖った牙を見せるようにして開いた口からはよだれがだらだらと流れ落ちていく。
「お前、どうしたんだ…!!おい!!」
「無駄よ…。正常な状態じゃない。狂化は自意識から身体を解放する。身体は被術者の意識による制御が不可能になり、その生物の阿頼耶識のみに従うようになる。本能が強制的に覚醒させられる。」
「本能が覚醒…。」
「うん。姿と行動はより自然になる。ルナーの場合は猫又としての姿。」
「じゃあ、どうしてあんなに苦しそうなんだ!?」
「苦しいでしょうね。狂化はあくまで阿頼耶識下の欲求の実現のみを尊重する。物理的であれ、精神的であれ、それを制限するのはもっと浅い層の意識よ。それを狂人は無視できる。事実、身体には相当な負荷が掛かっているはず。不完全な狂化によって、強烈な痛みだけは実感しているんでしょう…。」
「そんな…。どうすればいい!!あいつを助けるには!!」
「そうね…。まずは動きを止める。もしくは、気絶させる…。」
「ああ!?狂化を治す魔術とかねえのかよ!!」
「あるけど、出来るわけないでしょ!狂化って言ったって方法が分からないと対抗のしようがない。」
「くっ!他には何か無いのか!?」
「だから気絶させるしか…!」
「それは出来ない!!あいつに手を出したくはない。」
「何言ってるの!!そんな手加減の出来る相手じゃないって!」
「分かってるよ。結界はどうなんだよ!」
「あれを完全に封じ込めるためとなると、結界を張るのに相当な時間が掛かると思う…。」
「くっ…他に手段は無いのか?」
「他に…。あとは体力勝負。ひたすら耐えるとか…。」
「それだ!それしかねえ…。」
「いや、そんなの作戦としては…。」
「それでも、やるしかない。任せろ!!」
「任せろって言われても、無理があるって!!とりあえず、尤は腕の強化を急いで。私が彼女の足止めをするから。」
「……。」
黙って頷く尤。
ガラスの砕けるような音。
砕ける魔石。その破片が床に飛び散る。
「これで凌げるなら楽なんだけど…。」
白波瀬家は魔術師の家系だ。
数世代にも渡り、一分野の研究を進めてきた名家。分野は結界。結界の性質である防御、遮断に関しては一流。
閉ざせ。
散らばった破片は号令に従い、動き始める。
ガタガタガタ。震える破片はゆっくりと地面を這う。ルナーを目指して、ジリジリと進む。
発現せよ。偏向障壁。
途端、破片は宙に浮き、弾丸のように前方へ飛んでいく。
それらはルナーを囲って留まると、液体のように広がりながら結合して、1つになる。
魔術は成功。
内部に彼女を閉じ込め、外部への影響を遮断する。
「尤、早く!」
「ああ!」
右腕に左手を添え、全神経を右腕へ向ける。
この数日間の事が思い出される。
決してきつい鍛錬では無かった。
それ故に考えさせられた。
己を見直す時間だけは余る程あった。
自分には何もない。
無力で情けない。
たった1人の少女も救えなかった。
先天的に持ち合わせた感知だけが、せめてもの拠り所だったのに。
それすら。その才能すら否定された。
あまりにも大きな壁。先が見えないのではなく、進むべき方向が分からない。
それでも…。それでも。だからこそ、彼女だけはと望む。
今度こそ、必ず救ってみせると心に誓う。
魔力が一点に集中する。
尤の右腕は呼応するように輝きだす。
強化は成功。
腕を覆うオーラは前回よりも強い光を放っている。
「よし…。」
「大丈夫そう?」
「ああ。」
鈍い音がする。
障壁にヒビが入っていく。
「もう割れそう…。正真正銘、妖怪なんだね。今更だけど。」
「そんな事言ってる場合かよ!!こっからどうする?」
「だけど、大丈夫。もう一枚。」
そういうと憐は先ほど同様の手順を踏んで、ヒビの入った障壁の外に新たに結果を張った。
「これで当分は耐えられるはず。あとは彼女との根比べね。」
中では自我を失ったルナーが体当たりを繰り返している。
「ルナー…。」
彼女の活動が止む様子はない。
鈍い音が響き続ける室内。
ただ、ひたすらに暴れ回っている。
「この様子なら問題はないでしょう。尤の出る幕は無いみたい。あとは、障壁を良い具合に作って…。」
爆発音と共に風圧を受ける2人。
「!?」
障壁のあたりが煙で包まれている。
「そんな…。」
「うそ…。」
広がっていく煙の中からルナーの姿が現れる。
獣の手によって、二重の障壁は破られた。
「そうよね。そう簡単にはいかないか…。」
「グアアアアアア!!」
威嚇するように叫び声を発するルナー。
「来る…!」
警戒して、言葉を掛ける。
獣の周囲に漂う煙は、瞬間的に押し潰されたように四方に広がる。
狂気に満ちた痛々しい獣の顔が目前に現れる。
「えっ…!?」
瞬間的に間合いを縮められ、面を食らう尤。
その距離は数値にして1メートル。
尤が視認出来た時には構えた腕を、振り下ろす直前。
咄嗟に右腕を差し出す。
ズシリと獣の体重がのしかかる。
初撃よりも明らかに重く強力な一撃。
「尤!!」
しかし、吹き飛ばされる事はない。潰されもしていない。
尤が自身に施した強化はしっかりと効果を発揮したのだ。
獣の打撃は尤に何の影響も与えなかった。
獣は慌てて、5メートルほど後退する。
「え……?」
誰よりも驚いたのは当の本人だ。
何が起きたのか把握するのに2秒の時間を要した。
「尤…!良くやった!」
「この腕で防いだ…のか。」
なにしろ、即席の魔法。魔術として整理された技ではない。効果の増強どころか発現の安定性さえ、確保できていなかった。そんな時間はなかったし、現状で尤の強化がどこまで耐え得るのか限界値を確かめる時間も無かった。
しかし、完全に防いだ。
始めの一撃を守った憐の障壁は粉々になってしまったので、少なくともあれよりは高い強度を持っている。
その事実は尤にほんの少しの自信を与えた。
「行けそうね。」
「ああ。」
「2人でルナーの動きを止めましょう。」
「なぁ。あいつを完全に封じ込めるような障壁を作るにはどのくらい時間が必要なんだ?」
暗転
尤が構える。
その正面では獣がグルルと喉を鳴らしている。
臨戦態勢。今にも飛び掛かってきそうな勢い。
食欲なのか。破壊衝動なのか。行動の真意はもう本人ですら分からない。
憐は尤の後方に立ち、両者の様子を伺っている。
「来いよルナー!!」
「グアアア!!」
尤目掛けて一直線に跳躍する。
両腕を前へ伸ばして、摑みかかる。
それになんとか反応する。神経を注いで避ける。
「っぶね。」
獣に始めほどの素早さは無い。二重の障壁を力で破った獣の体には、単純に疲労が蓄積している。
上手く躱された獣は尤を通過して、後方で着地する。
そして、素早く反転して、もう一度跳躍する。
「うわっ。」
2度目の突進もなんとかすり抜ける。
しかし、またもや素早く反転。
これを何度も繰り返す。
尤は全てに対応し、体を翻して躱す。もしくは、右腕で防ぐ。躱す度に、疲労で尤の動きは鈍くなっていくが、それは向こうも同様。
「憐!!まだか!!」
「待って!あと少し。」
回想始め
"「なぁ。ルナーを閉じ込められる堅い障壁を作るのにどのくらい時間が必要なんだ?」"
"「障壁?早くて1分ね。」"
"「分かった。」"
"「え?」"
"「俺が囮になる。その間に憐が上手くやってくれ。」"
回想終わり
尤からの提案だった。
そして、尤はその通り、役目を全うしている。
あとは、憐の詠唱次第だ。
「早くっ!!」
そろそろ体力の限界。
肺が張り裂けそうになりながら、ただ避ける。避ける。
さっきルナーの打撃を防ぎきったと言っても、防御されないと踏んだ直線的な攻撃に合わせたに過ぎない。
あの鋭い爪に触れるのはあまりにもリスクが高い。
しかし、避けるだけではもう限界近い。基礎訓練もろくに積んでいない素人では、普段経験しない運動量に、心肺機能がついていけない。
「はあはあ…はあはあ…。」
肩で息をする尤。
そこに迫る獣。
振り子のように繰り返される攻撃。
次の攻撃に対応しようとする。
しかし、動かない。目は獣をしっかりと捉えている。ただ、体は動かない。
疲労から来る瞬間的な硬直。
獣はもう目の前。
「…うああああ!!」
右腕で頭を覆い叫ぶ。責めてもの抵抗が室内に響き渡る。
その時、数本の光の筋が後方から目の前に飛び込んで来る。
素早く飛行する発光体は結合して発光する。目が眩むほどの閃光が尤と獣の間を遮る。
その境界は物質となって現れて、獣の動きはそこで止まる。
「間に合った…。」
安堵の声が聞こえる。
獣は宙に浮いたまま、身動きできずに固まっている。その周りを球体状に障壁が覆う。
ビリビリと電撃の様なものが頻りに走っている。
「これは…。」
「上位魔術よ。」
「憐!!やったのか!!」
「ええ…。なんとかねー。」
ふうと息を吐く憐。
「うりゃああああー!!!」
甲高い男の声。
この主は分からない。
あたりを見回す。
「!?」
後方から、憐に飛び掛かる何者か。
「憐!!」
憐も振り返り、障壁を展開しようとするも、もう遅い。奇襲に対応できず、その何者かの一撃が直撃する。
「ぎゃあああ!!!」
吹き飛ばされて、転がる。
「うぐ…うう…。」
倒れ込む憐の腹部は赤く染まり、床にも流れてひろがる。
「あ…ああ…。憐…。」
血の気が引く。