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濁りに染む華

どうも、七緑です。



前回の続きから。

インフェルノ()は、日本の宗教観に関わる話になりそうです。

というのも、自分の考えに関する資料を集めるため、日々ネットで調べたり、本を読んだりしているわけですが、自然とそういった内容の情報が集まってきてしまうのです。

おそらく、琴線に触れるワードや言い回しがあるのでしょう。最近、宗教に関する関心が高まっていて、そのせいで自分から寄ってしまっている可能性もあります。


宗教学について、無知なので感覚的なところが多いのですが、日本人として持っている宗教観は結構独特なものがあるのだなと思っておりまして、そこに一種のアイデンティティのようなものすら見出しています。


神仏習合。


神祇信仰と仏教信仰が融合して一体化して再構成された現象のことだそうです。

日本において、キリスト教もイスラム教もヒンドゥー教も、この神仏習合した信仰体系を脅かすような状況ではありません。

仏教の発祥であるインドでは、ヒンドゥー教信者が人口の8割を占めているとか。

それは、様々な環境的な問題が影響していると思います。私は、勉強中なのでほとんどのことを理解できていません。

しかし、調べていて1つ思ったのは、仏教は難解で信者に求める範囲が大きいのです。比較対象はキリスト教です。唯一神信仰の最大勢力を誇るキリスト教は、信者に祈ることを求めます。そうすれば救われるというのです。しかし、仏教はそうではありません。生きることと死ぬこと、それに自分と相手について考えることでその人を悟りの境地へ導く手助けをしているように思います。だから、仏への敬い方がキリスト教における神への信仰とズレがあります。ちなみに、ヒンドゥー教のことはろくに知りません。


このことから、仏教は実学的だが、ポップではありません。キリスト教の方が、ポップでライトなのです。ポピュリズムで信者を増やすことに長けているのです。

しかし、今日まで日本の最大勢力は神道も含めた仏教です。実際のところ、島国であることによって何度も侵略を免れている点は大きいと思います。GHQの介入によって、教科書で日本神話を取り扱うことを禁じられたというのも、要因としてはありそうです。


ただ、私が言いたいのは、結果的に私の生きるこの日本になりました。ここでは、宗教と人の関わり方が、丁度良いなと思うのです。寛容な文化は脆いでしょう。しかし、心地良いのです。


現在、前述の通りインターネットは敗北したと思っています。これは、日本人が海外の文化を取り入れ過ぎているからではないかと考えています。日本には日本の良さ、多様さがあって、これを西洋的な方法でインターネット化するのは無理があったのではないでしょうか。


正直な話。この問題を解決する方法は分かっていません。しかし、仏教的思想のみに頼らず、神道的な価値観をうまく融合させた状態こそがこれからのあるべき日本の姿ではないかと考えます。


さて、やっと本題です。

仏教の教えや仏教徒の言葉では、蓮の花がよく出てきます。蓮は泥水で育ち、茎を伸ばして水面から少し離れた場所で花を咲かすそうです。そこから転じて、悪い環境であってもそれに影響されず、清廉さを保ち続けるようにと比喩的に用いられるようです。


それを表した「濁りに染まぬ蓮」という言葉がありまして、これは良い言葉ですよね。

ただこのまま使ってしまっては、味気ない。

そして、神祇信仰のエッセンスも入った日本独自の花を咲かせる必要があります。

ただもしかすると、その濁りとは全く別の思想かも知れません。

そういった意味を含めて、インフェルノ()のタイトルを決定しました。


「濁りに染む華」


タイトル発表まで長い道のりでした。

勿体つけ過ぎた感は否めません。それだけ、考えて考えて、凝り過ぎては戻したりと、試行錯誤を繰り返しました。

迷いは払拭できたと思います。

ちなみに、キリスト教批判のような文脈になってしまいましたが、全くそういったことではなく、アプローチの問題があるという点をお話したに過ぎません。西洋的な文化が結果的に流入することに関して、否定的だというものではございませんので、ご了承ください。


では、近いうちに。