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インフェルノ(仮)

どうも、七緑です。



早速ですが本題。

インフェルノにカッコ仮を付けるのは、そろそろやめたいです。

ということで、タイトルを真面目に考えよ〜〜。

以前似たようなことをした気もしますが、その気は結局決まらなかったので再度挑戦します。


まずは、インフェルノの中で語りたい思想についてまとめてみましょう。

我々の生きている現代では、未だ高度経済成長期の世界観を持つ人々が多く存在しています。物質の引力に引き寄せられた人々は、肉体の不自由さと相関して、精神も自由を奪われているような気がするのです。

分かりやすいのは、幸せの形に対する価値観に、多様性がなかった点です。

クレヨンしんちゃん的な家庭を平凡で幸せな家庭として、それ以外の幸せは極小数の限られた人間のみに許された生活なのだと感じています。

そのため、そこから外れる人間を叩く性質、文化が定着しているのでしょう。

日本の悪しき風習です。


その状況は、インターネットの普及により大きく変化するかも知れませんでした。価値観の多様さを許容する環境作りについて、インターネットは、非常に大きな変化をもたらす期待がありました。

言わば、日本社会をハックする可能性があったわけです。


しかし、実際はそうなりませんでした。それを決定付けたのはSNSの普及です。テレビとSNSの関係性が、テレビと井戸端会議の関係性となんら変化していないのです。より強固になっていると言っても良いでしょう。

インターネットはテレビという一般大衆を代表するようなメディアの影響下にあります。


もちろん、部分的に逆転現象が起きていたりしますし、そもそも使用者がうまくネットを活用している場合は、その限りではないでしょう。

それでも、下剋上が起こったわけではないという認識でいます。私としてはインターネットの性能を鑑みるに、この状況に対して強く違和感を覚えます。

youtubeの台頭は刺激的でしたが、テレビがyoutubeに変わっただけで、構造上の大きな変化はありませんでした。(受信者から発信者側に回る率は上がったような気もしますが、まだまだ小数です)

イエスorノーの二元論によって簡素化したコメントを、したり顔で発信したような気になる人間が多過ぎます。誰にでも言えるコメントをSNSに投稿することは、井戸端会議によって、価値観を再確認し、一様に収束しようとする昭和的生き方と何ら変わらないのです。


それなら、どうするべきか。

道は二つ。

インターネットの使い方を導くか。

それとも、別の方法で導くか。


私は後者を選びたいのです。

こんな話をしておいてなんですが、説教臭さはできる限りなくしたいです。そのためには直接的な問い掛けはできません。

そして、インターネットの敗北は使い手の心持ちが原因でした。だから、精神性が変わらなければ、いくら真正面から批判したところで変わりっこありません。

ある体験から気付きを得て、「自分の人生を生きよう」と決心してもらう必要があります。

そのために、物語とイラストと映像を駆使します。



次回は、物語の内容からタイトルを決定したいと思います。

では、近いうちに。